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美術におけるフェノロサと日本美術とは?

美術の分野におけるフェノロサと日本美術(ふぇのろさとにほんびじゅつ、Fenollosa and Japanese Art、Fenollosa et l'art japonais)は、明治期の日本美術界において重要な役割を果たしたアーネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa)による日本美術保護・振興活動を中心とした文化史的なテーマを指します。近代日本における美術観の形成や伝統美術の再評価に多大な影響を与えました。



フェノロサの来日と文化的背景

アーネスト・フェノロサは、1853年アメリカ・マサチューセッツ州生まれの哲学者・東洋美術研究者で、1878年に東京大学(当時の東京帝国大学)哲学講師として来日しました。明治政府の招聘により近代教育制度の整備に関与する一方、日本の伝統文化、とりわけ仏教美術に強い関心を持つようになります。

近代化の波の中で、多くの寺院美術や古美術が破却・売却の危機にさらされていた当時、フェノロサは日本美術の価値を国内外に広く訴え、文化財保護の必要性を説きました。こうした活動は後に重要文化財制度の成立にもつながり、日本における美術行政の基礎を築くこととなりました。



岡倉天心との協働と美術思想の展開

フェノロサの活動において特に重要なのが、岡倉天心(岡倉覚三)との出会いです。天心は東京美術学校(現・東京藝術大学)の創設を主導し、日本美術の教育と理論化を進めた人物であり、フェノロサとは深い思想的交流を持ちました。

両者は共に日本の古典美術、特に大和絵や仏画の美的価値を再評価し、西洋の写実主義やアカデミズムに対抗する形で、東洋的精神性の重要性を説きました。この協働により、日本画復興運動が展開され、橋本雅邦や横山大観らによる新たな表現が生まれました。



調査・保存活動と世界への発信

フェノロサは全国各地の古寺や文化財を精力的に調査し、数多くの美術品を記録・保存に導きました。代表的な例として、法隆寺の釈迦三尊像、金剛峯寺の仏画、興福寺の阿修羅像などの保全に尽力したことが知られています。

また、帰国後はボストン美術館の東洋部門の創設に関与し、日本美術を西洋に紹介する展覧会や講演活動を行いました。これにより、浮世絵や仏教彫刻などが欧米の美術史の中で正当に評価される道が拓かれました。こうした国際的評価の高まりは、ジャポニスムの潮流とも呼応し、日本文化の対外的認知に大きく貢献しました。



近代美術観の確立と評価の変遷

フェノロサの思想は、単なる保守的復古主義ではなく、「伝統を近代へと継承するための再解釈」に基づくものでした。そのため、彼の理論は当時の日本画壇の発展に大きな推進力を与えるとともに、国民的美術教育の枠組みにも影響を及ぼしました。

一方で、西洋的美術制度を導入しながらも日本の「国風」を強調したために、その後の芸術思想との衝突や再検証も行われています。現在では、フェノロサの活動は「美術を守った外国人」という枠を超え、異文化を架橋した思想家として再評価が進んでいます。



まとめ

「フェノロサと日本美術」は、近代日本における美術保護・教育・思想形成の原点として、非常に重要な文化史的テーマです。

伝統の再発見と国際発信を通じて、今日の日本美術のあり方に多大な影響を与えたフェノロサの功績は、今なお深く美術界に根付いています。

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