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美術における白馬会とは?

美術の分野における白馬会(はくばかい、Hakubakai)は、日本の絵画団体のひとつで、明治時代の日本美術の発展に大きな影響を与えた団体です。白馬会は、洋画を中心に活動を行い、日本の美術界に西洋画の技法と表現方法を導入した重要な存在とされています。



白馬会の設立と歴史

白馬会は、1889年(明治22年)に設立されました。西洋画を学び、発展させることを目的として、画家たちが集まりました。設立者には、黒田清輝(くろだ せいき)や藤島武二(ふじしま たけじ)などが名を連ねており、彼らはその後、日本の洋画の発展に大きな貢献をしました。白馬会の名前は、画家たちが作品制作を行う際に使っていた「白馬」という言葉から取られました。

白馬会は、当初、洋画に対する関心を高め、技術や表現方法を西洋から学ぶことを目的にしていました。特に、印象派や写実主義などの西洋画の流れを取り入れ、日本の絵画に新しい視点をもたらしました。これにより、従来の伝統的な日本画に対抗する形で洋画が確立し、近代日本画の基盤を作ることができました。



白馬会の主な活動

白馬会は、設立当初から積極的に展覧会を開催し、日本の美術界に新しい風を吹き込みました。展覧会を通じて、洋画家たちは自分たちの作品を発表し、また西洋絵画の技法や理念を広めました。

1. 展覧会と作品発表:白馬会の画家たちは定期的に展覧会を開催し、その中で自らの作品を発表しました。特に、1893年に開催された第1回の展覧会は、洋画家たちが本格的に集まり、作品を公開する場として大きな意味を持ちました。

2. 技法の革新:白馬会の画家たちは、写実的な技法を取り入れ、また色彩や光の表現に注力しました。特に、黒田清輝はフランスの印象派に影響を受け、明るく鮮やかな色彩を使った作品を描きました。これにより、日本の絵画に新たな風が吹き込み、洋画がより身近に感じられるようになりました。

3. 教育と指導:白馬会の画家たちは、後進の育成にも力を入れました。彼らは、西洋画の技法を学ぶための学校を設立し、若い画家たちに指導を行いました。これにより、白馬会は日本における洋画教育の礎を築きました。



白馬会の影響とその後の展開

白馬会は、明治時代後期において、洋画の発展において重要な役割を果たしました。白馬会の活動によって、日本の美術界は西洋画の技法を学び、それを基盤に新たな絵画運動が生まれました。特に、東京美術学校(後の東京芸術大学)などの美術教育機関で洋画が広まり、次世代の画家たちに影響を与えました。

しかし、白馬会の活動はその後、次第に変化し、解散に至ります。20世紀初頭には、より多くの画家たちが独自のスタイルを追求し、白馬会が掲げていた伝統的な技法から進化していきました。その後も、白馬会のメンバーの多くが個々に活動し、洋画の更なる発展に寄与していきました。

白馬会の解散後も、その影響は続き、日本の洋画は新たな方向性を見いだし、後の近代美術に大きな影響を与えました。白馬会が日本美術に与えた影響は、絵画だけでなく、陶芸や彫刻、デザインなどの他の分野にも波及しました。



白馬会の代表的な画家

白馬会のメンバーには、後の日本洋画界を代表する多くの画家が含まれており、その作品は現在でも高く評価されています。以下は、白馬会を代表する主要な画家です:

1. 黒田清輝:黒田清輝は、白馬会の創設メンバーであり、洋画における先駆者です。彼は、フランスで学んだ印象派や写実主義の技法を取り入れ、日本の洋画を近代化させました。特に、「湖畔」などの作品は、色彩と光の表現に革新をもたらしました。

2. 藤島武二:藤島武二は、白馬会のメンバーの中でも、特に人物画や風景画を得意とした画家です。彼は、写実的な表現に加えて、色彩感覚や構図の革新を追求しました。

3. 横山大観:横山大観は、後に日本画においても重要な役割を果たすことになりますが、初期には白馬会で洋画を学びました。彼の作品は、絵画における新しい表現方法を模索したものとして評価されています。



まとめ

「白馬会」は、日本の洋画における重要な団体であり、明治時代の日本美術に革新をもたらしました。特に、黒田清輝や藤島武二などの画家たちは、西洋画の技法を日本に紹介し、それを基盤に新しい美術運動を生み出しました。

白馬会は解散後もその影響を色濃く残し、現代日本美術の基礎を築く重要な役割を果たしました。その活動がもたらした新しい視点と技法は、今後も日本の美術史において語り継がれるべき遺産です。

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